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4年前の私から

ファイルを整理していたら、4年前の展覧会に向けての企画文が出てきました。今の私の興味はここから少し変わりつつあり(それ故に非常に悩んでいるのですが)4年前に自分で書いたテキストが、当時自分がやりたいと思っていることを、今の私以上に明確に、力強く訴えようとしていることに、驚いてしまいました。たった四年前のことだけれど、何だか若々しくて、稚拙で恥ずかしい文章だけれど元気をもらったので、自分への覚え書きとして記しておきたいと思います。

「目に見えない他者を通じて、人間の存在に想像を巡らせること」

私たちの生きる世界に存在する無数の他者からどのような人々を他者として意識し、どのように想像するかは人の数だけ異なる。私はかつて誰かが身に着けていた衣類などの中古品に関わることで、私自身や家族、知人など、私が直接関係を築くことができる範囲のさらにその先の他者に繋がってみたいと望んでいる。とこまで遠く求めても、そこにはきっと一人の人間の命の息吹とささやかな日常があるはずだ。その存在の密度や重みは私や鑑賞者のそれと等しいはずだ。このように考えると私はいつも心のどこかが活気づいてくるのを感じる。「私」という小さな存在の向こう側に広がる膨大な世界にそっと触れる感覚を持つ。

他者の存在への想像力は、私たちの意識を外へと向かわせてくれるものであり、やがては他者にとっての他者である自分自身の存在の重みへと返ってくるものだ。しかし自分にとって存在の実感を伴わない名のない他者を想像し、その存在を感じることは難しい。さらに言えば無数の他者ひとりひとりを思うことは不可能だ。他者は変幻自在に姿を変え、通勤ラッシュの肩越しに出会うかと思えば、ニュース上の文字や数字となっても現れる。私たちは日常の慌ただしさにかまけ、疲れ果て、いつしか他者が、自分や自分自身が愛する人々と同様のぬくもりを持った存在であることを忘れる。私たちは毎日やって来る暴力の知らせに麻痺し、命や心の重みを感じられなくなりつつあるのだろうか。

「他者」という存在を、報道やドキュメンタリーとは異なるアートとして詩的な方法で浮かび上がらせることで、私たちを取り巻く日常の別の姿、日常の奥底に静かに横たわっている想像の世界を掬い出したい。ありふれた日常から少しずらされた世界に鑑賞者が暫し身を置くことで、いつもの見慣れた日常の風景が少し違った見え方をしてほしい。作品から得られた感情や感覚が、厳しい世界を生き抜くためのささやかな慰めになればいいと思う。

2014年7月19日

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