布の根源

July 21, 2016

 布について調べる日々が続いている。材料となる動植物の繊維、糸、織、染・・・布に関する歴史は広範な時代と地域にまたがっていて、そう簡単に全体を俯瞰して眺めることができない。ただ、自分自身がなぜ布に惹かれているのか、布に纏わるものごとの一体どこに反応しているのか、それを確かめたいと思っている。

 

 布について調べ始める際に、特に多くの示唆を得ている文献が、日本近世文化・アジア比較文化研究者、田中優子氏の「布のちから」という本である。田中氏は布がメディアであるということをおっしゃっている。奇しくも、私も焼き物が記憶メディアであるということを言っているのだが、この考えに至った当時、田中氏の考えについては全く知らなかった。(同じ「メディア」という言葉なのだけれど、そのメディアが記憶し伝えるもの、その内容は、当然異なっている。)私が衣服という対象を通じて布に関して感じていた、ぼんやりとしかし確かに抱いていた感覚が、田中氏のリサーチの基づいた非常に的確な言葉で述べられていて、共感しつつその研究の視野の広さ、布をめぐる視点に圧倒されてしまった。自分がもともと抱いていた感覚がくっきりと輪郭を与えられて、もはや元々自分が感じていたことだったのか、田中氏の言葉によって拡張されたのか区別がつかないほどだ。これももう一度精査しなければならない。

 

 繰り返し読み返すなかで、生命と布に関して書かれている章に目がとまり、田中氏の語る韓国の「チョガッポ」という古布や端切れをパッチワークした風呂敷のようなものを、とりあえず印象に留めたくてインターネットで探してみた。すぐに画像は見つかり、そのチョガッポを見て、偶然にもある作品に対する理解を得ることができた。それは、現在金沢21世紀美術館で開催されていて、私も出品させていただいている展覧会「コレクション展1 Nous ―ぬう―」にコレクション作品として出品されている村山瑠里子氏の「無題」という大きな布の作品で、アーティスト本人によって染められた布が端切れとなりモザイクのように縫い合わされているもので、眩むような鮮やかな色彩が眼前でスパークしながら、高い天井へとそびえている。

 

 端切れを縫い合わせたチョガッポによく似たこの作品、これが「生命の布」なのだということが突然理解されて、スーッと胸がすく思いがしてとても驚いた。端布をいろいろなところから集めて縫いつなげる作業において、切れ端のひとつひとつは布の命であり、人々の営みの断片であり、布は本来その繊維や染料から自然や命の営みと密接に関わっている。村山氏の作品に見られる端切れは均質なミシン目によって繋がれており、手芸のパッチワークや民芸の「ぼろ」のもつような手仕事の温かみというものは程よく抑制されている。おそらく染料も化学的なものだろうと思う。私たちが現代の日常生活のなかで身に纏う衣類は化繊も多く、綿などの自然繊維であっても機械化され量産された布だ。けれども、それが化繊であっても化学染料であっても、身体を包む「布」という存在が持つ本来の意味や本質は、細々ながら連綿と繋がっているのではないかと感じている。(残念ながら私自身は、自然の繊維から糸を作り、人の手によって織られた布を身に着けた経験がないのだけれど、身に着けた時の身体感覚としては、おそらく大きく異なるのだと想像している)

 

この作品はブラウン管の三原色を見ているような、あるいは拡大されたデジタル画像のピクセルを見ているような、現代的な感覚と交感する「生命の布」だ。これはアーティスト本人のステートメントや論評を参照にしたわけではなく、布について調べる中で得られた非常に主観的な解釈なので、本来のアーティストの意図とは異なるかもしれない。けれども私自身の関心と深く結びついたこの鑑賞体験は今後も私のなかに残っていくことだろうと思う。

 

コレクション展でこれまでも何度か見ていたこの作品が、今回の展覧会で目にするたびに気になるようになり、とても好きになった。そして私は、布が持つ根源的な意味「人間の存在(生命)を包むもの」「人間と自然の関係やその営み」について考えはじめる。

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