風を与えられるのですか

先月、朝のニュースで、メタバースや仮想現実空間での活動に対する装置やメタバース内でアバターが身に着けるアイテムの売買などが話題になっていました。私が耳にするくらいなので、詳しい方には目新しい情報ではないと思うのですが、一般の多くの人々が仮想現実のなかで様々な活動が行うようになる日もそう遠くないのかなと感じさせられるニュースでした。コロナ禍により、バーチャルな展覧会やネット上で作品を詳細に鑑賞できるような試みは既に行われていますが、アバターを通じて、大規模な展覧会を鑑賞したりアートイベントに参加するような試みが、一般に向けて開催される日は近いのでしょうね。


例えば、限りある資源を地球上の人間で分け合うために、できるだけエネルギーを使わないような生活をするという考えのもと、SF映画のように現実世界の人間は栄養補給チューブと機械に接続されて、仮想現実の空間の中で活動することが「エコロジー」であるということで推奨されていくなんてディストピア的な世界になったら怖いなあと想像してしまいました。


仮想現実世界では、痛覚や暑い(熱い)・寒いといった知覚も体感できるようですし、例えばウェブ上でデータを加工して3Dプリンターで出力するような場合、ソフト上で素材に触ったときの手ざわりや感触なんかも感じることができるそうです。テクノロジーの進化によって、このような体験ができることは革新的ですし、様々なメリットがあるのだと思います。それと同時に、このような話を聞くといつも私が思うことは、その手ざわりや感触を、仮想現実を管理している組織や技術者によって、〇〇の手触りとはこういうものだとデザインされた記号的な感触を与えられることになるということ。それはシステムにおいて、ある一部の特権的な立場の人々に私たちの感覚を支配されることになるのではないかと思うのです。


技術革新の過渡期にいる世代は、ある状態から別の状態の変化やその違いを時に抗いながら感じることができるでしょう。しかし完全にそのテクノロジ-が浸透した世界に暮らす世代にとってはどうでしょうか。例えば、インターネットが普及してパソコンやスマートフォンの画面越しに人と会うことなく、ほとんどネットを介して物を購入することができる世界では、かつて私たちが持っていたはずの、市場や商店のような場所で顔と顔を合わせて売り買いすることの手触りは失われつつあるのかもしれません。しかしテクノロジーが浸透した世代の人々は、その感覚が失われたことに気づくことはないでしょう。


今日の風、空気の湿度が肌に与える微妙な差異や、気温の変化によって足元の土や植物から立ち上ってくる香り・・。私たちの身体や感覚は私たち自身が意識するよりもはるかに繊細で複雑な知覚体験によって支えられています。ある日、テクノロジーはおそらく、このような知覚体験にも迫ってくるでしょう。でも私は与えられる風の感触ではなく、今この場所で私が感じる感覚を決して手放したくないと思うのです。


私の一連の作品の制作のプロセスは、粘土を練りながらその柔らかさや粘土中の微妙な水分、空気の湿度を感じること、など言葉にしないような微細な身体感覚の集合でもあります。重力や破綻、手触りといった様々な要素に身体感覚を揺さぶられ、不安で時に苦しくもなりますが、じぶんの存在が露わにされるような感覚のために、焼き物というコントロールの難しい素材を用いて作品をつくり続けているのかもしれないと考えたりします。


何かについて、その存在のリアリティをありありと感じることを「手触り」というならば、今後この「手触り」ということが今後の私の制作のキーワードになってくるのかもしれません。

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